「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を読む

なんだか個人的に許さんモード&現実逃避モードが発動したようなので、もう少しこの話題引っ張るよー。
http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisitext_index.html
こっそり一部公開していた。全部ではないところに何か恣意性を感じなくもないが(笑)、まあ皆さんも読んでみましょう。読まずに批判するのは良くないよ、うん。
今回は、とりあえず序章を取り上げたいと思います。
序章 歴史への招待>歴史を学ぶとは
どよーん。
一見、価値多元主義的なことを述べているようにも見えます。しかし、その裏で、何かある一定の方向へ読者を誘導しようとしているような違和感を感じるのは僕だけでしょうか。
一行目から行きます。

歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。

いきなり結論から書き出しています。うーん、僕なんかは「過去の人がどう考えていたか」というのは、「過去の事実」(「たとえば、Aという事実に対して過去の人がBと考えていた、という事実」と同じではないかと思うのですが、どうもこの筆者はそう考えてはいないようです。そのことに注目しつつ、文章を読んでいくと、

そのような不公平が実際にまかりとおっていた社会に不快を覚え、ときにひそかにいきどおりを感じて、なぜもっと社会的公正が早くから行われなかったかという疑問や同情をいだく人もおそらくいるだろう。しかし歴史を知るとは、そういうこととは少し別のことなのである。当時の若い人は、今の中学生よりひょっとすると快活に生きていたかも知れないではないか。条件が変われば、人間の価値観も変わる。

歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。

なるほど、この筆者はどうやら「事実=実際にあった出来事」と、「過去の人がどう考えていたか=価値観」をはっきり分けたいようです。その区別にはどのような意味があるのでしょうか。ひとつは、おそらく前に述べているように「今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすること」はいけないと考えているからでしょう。確かに、「過去を裁く」ことは、「歴史を学ぶこと」ではないかもしれません。でも、「当時の若い人は今の中学生よりひょっとすると不公正がまかりとおっていた社会に不快をを覚え、ときにひそかにいきどおりを感じていたかもしれないではないか(笑)、あるいは、当時の若い人々が、劣悪な環境にもかかわらず満足した状態にあったのは、当時の不公正な社会構造に起因しているかもしれないではないか(ビーダーマイヤー時代を想起せよ)。そのような事例に対していきどおりを感じるというのは、否定すべきことでしょうか。否定はしていない。確かにその通り。ならば、「歴史を裁くこと」が「歴史を学ぶこと」に対置させられるというのもおかしいのではないでしょうか。ここまでの文章をどう読んでも、「当時の若い人」に同情する人が批判されているのは、「当時の善悪や幸福」というものを考慮に入れていないからであって、歴史を裁いたからではない。
「今の時代の基準から見て」というのも、少し考えてみなければいけません。たしかに、「現代の善悪の尺度」は「歴史を学ぶ」ときに持ち出すのはあまり良くないかもしれません。だいいち、「現代の善悪の尺度」なんて理解している人がいるのかどうか。しかし、それで現代からの視点全てを排除するのはいささか短絡過ぎです。たとえば、あまりにも不公正な社会構造のせいで、劣悪な環境にもかかわらず満足した心的傾向にしむけられた人々、について考えてみましょう。彼らがたとえ満足していたからといって、我々が「彼らは満足していました」という地点に留まって終るのは、思考停止ではないでしょうか?やはり、その裏にあった社会構造について分析してみる必要があるのではないでしょうか?そして、そのときに用いられるのはまさに現代からの視点(社会構造と心的傾向の関係性に対する視点は、まさに現代的なものだ)なのではないでしょうか?しかも、次の段落では、

いったいかくかくの事件はなぜおこったか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたかを考えるようになって、初めて歴史の心が動き出すのだといっていい。

と述べられているのです。これはまさに現代からの視点がなければ、不可能なことではないでしょうか?もっと言いましょうか。「いったいかくかくの事件はなぜおこったか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたか」ということを考えるための、重要な手段として「比較史」というジャンルがありますが、その「比較史」−A国では産業革命がaのように進み、B国ではbのように進んだのはなぜか。あるいは、A国では産業革命においてcが起こったが、B国ではcが起こらなかったのはなぜか。これは現代からの視点を超えて、既に「今の時代の基準」にまで達しているのではないでしょうか?E・H・カーは『歴史とは何か』の中で、歴史家は「現代の尺度」を完全に排除することは出来ないと述べました。どんな歴史書であろうと、あらゆる歴史的なことすべてを書き表すわけにはいきませんから、必ず選択を行わなければいけない。選択は当然現代に生きている我々によって行われるわけですから、その書かれた物にはどうしても現代の基準が幾分は含まれてしまうのです。(つづく)