宮台真司は自分が何を言っているのか分かっているのか

http://www.miyadai.com/index.php?blogid=1&archive=2004-7-25
西欧の王権についての理解が、靖国大好きっ子さんたちと全く一緒なんですけど。
西欧の歴史において、単純に「王は高貴なれども聖ならず」と言うことはできない。たとえば中世〜絶対王制期にかけて、西欧には「王の二つの身体」という考え方があった。王には生身の肉体である「自然的身体」とは別に、「政治的身体」も持っている。政治的身体は臣民たちを四肢に持ち、王はその頭である。つまり、政治的身体とは国家そのものである。このような考え方によって、西欧における王は単なる神から与えられた権力の執行者ではなく、むしろ自身の権力を自分自身で絶対化するような超越性を持つ存在であったのである。カントロヴィッチは、この「王の二つの身体」という考え方の「政治的身体」を「議会」に読み替えていくことによって、近代民主制が発展したと考えた。こう考えると、立憲制において王が処罰されるのは、「約束違反」によってではなく、政治的身体としての王が表象している国制から逸脱することによってであるということになる。*1
民衆の世界ではどうだったか。マルク・ブロックは、中世においてフランスで流行した「国王が触れることによって瘰癧が治る」という噂から、民衆が持つ、超自然的性格を有した王のイメージを明らかにした。*2ル・ゴフも『聖王ルイ』において、民衆による国王崇拝が行われていたことを明らかにしている。
このような歴史的背景を持つ西欧諸国の国民が、もし現在、国王の政治的発言にふりまわされることがないとすれば、それは聖とか俗とかそういう問題ではなくて、単純に宮台がいつもいっているように「民度」の問題でしょ。「民度」の向上は確かに時間がかかるかもしれないけど。とりあえず、あの馬鹿馬鹿しい皇室報道はやめたらいいと思う。
本当に当たり前の話なのだが、日本だろうと西欧だろうと、「国王?ああ、一番偉い俗人ね。」などというクールな分別はありえないし、行われたこともない。しかし、宮台の文章はこういうことがあたかも行われていたかのようにしか読めない。宮台が少なくともカントロヴィッチの議論について知らないなんてことはあるはずがないと思うのだけれど、うーん。また「あえて」のネタですか?ネタは別にいいんだけれど、このテのネタは、「日本と西欧の政教分離は違う」式の副作用をもたらすわけですよ。「政教分離は、聖と俗の分離という西欧の一神教的な文化に基づくものであって、ヤオヨロズの神を信仰する日本にはなじまない。」式の。だから、やめて。

*1:たとえば、チャールズ1世は王の名によって処刑される。

*2:『王の奇跡』